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もう半年以上愛用している、MiLiのiPhone4用ジャケット一体型バッテリー。
仕事でお会いする人からそれは何かとよく尋ねられるんですが、なんとイベントコンパニオン仲間ちゃんが、私の勧めを受けて購入したんだって!メーカーの回し者みたいですね私w
基本的なことですがジャケットの中に蓄電しておけるタイプです。もちろん単体でも充電できるし、iPhoneに着せたまま電源に繋いだりPCとの同期もできます。電源に繋ぐとiPhone本体から優先的に蓄電されます。iPhoneの電池残量が減ったら側面のボタンを押せば、バッテリージャケットからiPhoneへ充電満了になるまで蓄電が流れます。側面にブルーのインジケーターがあって4段階のLEDで電池残量が表示されます。
本体へのコネクタがミニUSBで汎用性があるというのも非常用バッテリーとしてはポイントですよね!
HI-C11は蓄電量が大容量(iPhoneフル充電一回分は余裕)のフラグシップモデルで、他にも軽さがウリのHI-C23や、同じ形で3G・3GS用のHI-C10などもあるよ。
[ iPhone External Battery,MiLi -Made for iPod_iPhone_iPad ]
アクト・ツーでの詳細。
[ MiLi Power Pack 4 – act2.com ]
でも実際のところiPhone4はかなり充電もつし不満ありませんけどね。スマフォはバッテリーのモチがうんたら〜って言ってるひとは謎。
届きました。かなり楽しみにしてました。東浩紀さんが編集長の会社コンテクチュアズの言論雑誌『思想地図beta』。vol.2の特集は「震災以後」。vol.1と違って万人に共通のテーマだし、本体価格の3分の1が義援金になるので、ふだんこういった本読まないひともフラっと買ってみてもいいのでは!明日が正式な発売日です。これから読むー!
こちらで本誌サンプルが数ページ読めます!
http://contectures.jp/about_shisouchizu_beta
(オフィシャルサイトの思想地図β2紹介ページ)
今流行りの「スマフォ女子」の佐藤真美ですこんばんは!w
7/13発売のスマホ特集のANANに私がちっちゃく載ってます。
あ の ! A N A N で す よ ! !
アプリのレビューですー。
ぜひウォーリーみたいに探して下さい(・ω・´)
☆☆☆☆☆
お前は今まで食ってきたパンの数を覚えているか?
じゃなかった、今まで使ってきた携帯電話って覚えてますか?
私は5機種ぽっちです。
・p504i
初めて携帯電話を持ったのは高校入学したて。機種は自分で選んでません。
私の年代では、高校生で初ケータイデビューだとちょっとダサい、くらい。
・p252is
おもちゃみたいに小さい。
キャリアはdocomoのまま機種変。
・Nokia 6630
…正式にはFOMA NM850iG…。
NokiaやBlackBerryのスマートフォンにすっごく憧れて、使ってみました!
docomoカスタマイズがなされた(ロックがかけまくられた)コレはスマートフォンと呼ぶには忍びなかった…orz
日本のキャリアのやり口に不信感を抱くようになりましたよ。
ボーダフォンから発売されてる同機種はおかしなロックが掛かっていなかったし、他にも色んなスマフォが出てたのでボーダフォンいいなと思いつつ、
それとヤフオクなどでsimロックフリーnokiaに誘惑されつつw、
金銭的に850iGを使い続けました。
ちなみに購入時のFOMA NM850iGの筐体はこんな感じ。
サードパーティ製のシンプルなケースとシリコンで出来たキーボードに変えたんです。
3.5mmのイヤホンジャックが差せるアダプタ買ったり、ネットで探せばアクセサリが豊富にあったので楽しかったです。
テーマもキティちゃんにしてかわいいでしょ。音楽ファイルもこれにいっぱい入れてiPhoneっぽい使い方してました。
何度か水没させたけど今も健在。やっぱり強いNokia!
・iPhone3G
Apple教に入信したので、日本でiPhone発売だー!!お祭りだー!!と表参道で徹夜して並んでゲットしました。
男性率高くて並んでる最中TVの取材いっぱい受けたけど使われてなかったワロタw
・iPhone4
3GSは金銭的に断念して、待ちに待ったiPhone4を発売と同時に買った。
いまここ。
Androidなども魅力的な端末が続々出てますなあ。誘惑されてます。
ブログに書けないコンフィデンシャルなお仕事つづきですがちゃんと働いてますすー。
祖父が亡くなって数日前葬式に行ってきました。
無口で少しも老害じみたところがなくダンディー(←性別問わず使ってる褒め語)で、手先が器用でクリエイティブな、密かな親近感を持っていたおじいちゃんだったんですがね。
前後のお仕事や予定が忙しかったのでショックを自覚しませんでしたが、昨日ゆっくり寝て目が覚めたら、しばらく軽い絶望感というか、無性にわびしい気持ちが襲ってきました。
「睡眠中に脳が記憶の整理を行っているんだなあ」と実感しますね。
寝起きに鬱な自分を発見すると、最近は「深海魚が水面に引き上げられるイメージ」を思い浮かべます。
急激に明るい大気中に引き上げられると膨張して破裂しちゃいますからね。
滑稽な深海魚に思いを巡らせている間に頭がスッキリして通常運転になるので、これは自己流のなおまじないです。
さて、メンヘラっぽくなってまいりました。
iPhoneにiOS5 beta版を入れてしばらく使ってみてましたっ。
せっかくなので私も、使いやすいぞアピールします(´ω`)ゆるく。
やっぱり「ついにPC無しでアクティベートできるように!」ってことが驚きですよね。
設定の中にソフトウェアアップデートがありますよっ
あと「写真」内でアルバムを追加できるようにもなってたり、
「ミュージック(元iPod)」がスワイプで曲の削除ができるようになっていたり、、
PCとほとんど同期しない人が「できないの?」って言ってたことばかりだね。
iTunesとのワイヤレス同期もついに!って感じですね。
OSレベルでTwitterとの連携がなされるようになったのも驚きですね。SNSでもTwitterなのがちょっとびっくり。
新しく付いた「通知センサー」。
ステータスバーを下にスライドすると出てきます。
今までは、スリープ中にメールやTwitterなどの通知がポップアップで来て、それが消えてしまうともう確認できなかったけれど、iOS5ではここに通知が残ります。
今までAppStoreで買ってたひとも多いであろう、ToDoリストがデフォでつきました。
位置情報でリマインドさせることもできる。なんか好き。
「天気予報」がGPSで習得したピンポイントの位置で予報を表示するようになりました。このキャプチャでは「現在地の天気」になっているけど、「3丁目」とかも表示されるよ。
一時間毎の天気も見られるようになりました。
あとカメラ!かなり使い勝手が良くなりましたよ!
今までロック画面でホームボタン2回押すと曲の再生が選択できたけれど、そこにカメラもつきました。すぐ起動できちゃう。
それにハード側のボリュームのプラスボタンでシャッターがきれます。横向きに持って友達と一緒に写る時に便利ですよね!
グリッド表示もつきました。
カメラ起動中に画面をスワイプして、前に撮った写真を確認することもできます。これはiPadでつかえそう。
ちなみに「写真」内の項目を削除するとき、一枚の写真を長押し→選択開始→そのままスライドで他の写真もバババーっとイッキに選択!だったのが、
一枚一枚タップになってた…あれ好きだったのにw
safariに「リーディングリスト」(あとで読む)がつきました。これも今までは外部サービス使ってたね。
カレンダーは加速度センサーで画面の向きを変えられてより手帳らしい表示ができるようになっています。
視覚・聴覚・身体機能サポートもかなり充実してます(今まであまり気にしてみてなかったけど…)。
着信音をモノラルにできたり、バイブレーションをカスタムできたり。
読み上げ機能も追加されました。
選択した文字をボイスオーバーで読み上げさせることができます。
読み上げる速度もあらかじめ調節できます。
文字入力も変わりました。文字の変換候補に「部首」。
( ゚∀゚)o彡゚カンジカンジ
(でもちょっとこれよくわかんないですww)
メールがリッチテキスト編集できるようになったらしい(まだやってない)。PCと同期してるEメールでリッチテキスト編集できないと不便だったよね!
こんな風にフラグも立てられるようになりました。
アドレスをドロップしてBccやccに移動もできます。
あとMobileMeが標準のメールアドレスになってましたよ。
iCloudも無料うれしいですね。
googleで事足りるんだけれど、「ソフトウェアの代用のwebブラウザ上のサービスをiPhoneと同期させて使う」のと「iPhoneのソフトウェアにクラウドがプラスされて広がる」のとでは、魅力が全然違うんでしょうね(´ω`)
iPhone 4 専用★食品サンプル愛飯/あいふぁん カバー(日の丸弁当)【iPhone4 iPhone 4 愛飯 あいふぁん】
七歳から飼っていた犬が死んだ。
老衰で、実家の方でもう埋葬したという連絡を受けた。
私が上京するまでの11年間、多感な年頃を一緒に過ごした。
血統書付きのシェットランド・シープドッグで牧羊犬らしく活発に走りまわり、この犬種特有のどこかオドオドとした困ったような顔つきで警戒心が強くよく吠えた。
死に顔は見てない(これを書きながら信じられない)。
死という字面が不吉だ。実はまだ生きているのに、その字の呪いによって死ぬような思いがする。
あながち間違いではないようにも思う。
死は(存在しない)。(存在しない)(ゼロ)(不可視)(未知)が死なのだけれど、「犬が死んだ」と言うときには死は可視的なもの、概知のものになっている。
言葉がなければ死は認識しえない。
認識を促す程度には、言霊ってほんとにあるよね。
言語化した時点で本来の喪失は遠のくんじゃないだろうか。とても健全な、他人と分かち合える悲しみに変容する。
それは死者との決別だ。心から故人を偲ぶならば口をつぐんで無意識のなかに留めておけば、いずれ現実と夢の境界が曖昧になって、生者と死者の区別が付かなくなる。
しかし社会性を持った平均的な大人はそんな選択はしない。フロイトが糸巻き遊びの例で示したように、主体的に死をあやつることから人間は形成されている。
私はこれを書きながら、「エクリチュールに取り込むことで死んでしまうことへの不吉さ」を感じている私から、「死んだ犬をいつまでも生きていると思い込んでいる」ことのほうがよっぽど不気味だと思う私への移行を果たそうとしている。
ロランバルトのような喪の日記ではなく、筋の通った物語をつくることに尽力するのだ。。
☆
あの犬への親しみが一層増すと同時に「共闘感」というような気持ちを抱くようになったのは、私の母親が死んでからだ。
親族皆が悲しんだ出来事だった。彼らはあたりまえに既視感たっぷりな葬式をやり、生前の病に侵された姿を思い浮かべ「頑張ったね」と安らかな顔を撫で遺体を焼く。日をまたいで、故人にまつわる思い出語りに耽りながら遺品の整理をし、しかし着々と日常へ帰還していく。
私は違和感を持っていて、私だけが違和感を持っていると感じていた。
母が入院してからも、死んでからも、私はあの犬のことが気がかりだった。なぜだか気が付くまで時間がかかった。
あの犬は母に一番懐いていた。母がいちばん面倒を見ていた。
母と寄り添って寝るのが習慣だった。犬らしいその忠誠心は寝ている母の足をしばしば鬱血させた。
母の病気が判明したのち実家に帰省すると新しい空気清浄機があった。犬の抜け毛が肺に影響して病気を悪化させるということだった。
あの犬は母の帰宅の車の音がするのを窓際でいつも待っていたー母は入院中であってもー、そのうちにあの犬は長年住み慣れた家から母親の実家へ移された。みんな疲れていたからだ、犬の面倒が見られなかった。そしてあの犬が愛した母は死んだ。
犬だから邪見にされたのもあるけど、犬は言葉が分からないから、皆好き放題言ったし、尊重すべき意思や主張を犬から聞きだすこともできない。
あの犬が家を移されたとき既に老犬だった。
忠犬ハチ公のようなよくできた物語のように、誰にも踏み入られずに自分勝手に、静かに死者との一対一の時間を送ることに余生を費やすのは、現実には難しいものだ、なんて思った。
感傷的なだけの悲しみが後から来るのを覚悟しながら今は俗的な雑事に追われておくのが頭のいいやりかた。
私の母のためによく働いてくれる親族たちは、私の目には急き立てる流れの一要因にしか見えなかった。死ぬ当人の母でさえも忙しそうだった。
「悔いのないように母親との時間を大切にしろ」と人生の先輩たちに言われる。
「悔いのないように」という設定自体が目の前の母親を飛び越して未来のために設定されているから、「これだから大人は不純だぜ」と思った。
それまでに私は父も亡くしていて、人が死ぬという事柄は、日常にきっちり収まったまま、痕跡だけ残していくものだと実感していた。
死んだ当時には現実感がなくあっけらかんとしているけれども、数日から数年かけて痕跡は存在感を増してくる。それにうんざりしていた。
どんな悲しい物語でも、当事者はそれほど悲しくないもんだ。
悲しい物語を人々が語り継ぎたがるのは、自分を登場人物に置き換えて立場を相対化して、自分たちが悲しい目に遭っている事を認めてすっきりするためだよね。物語はすべて未来にむけられている。
私は私の代替不可能な経験である母の死を、悲しみに到達する前によく見極める猶予が欲しかった。
こう書いていても自分で反抗期?厨二?という感想しか持てないでいるのだけれど…
ある日ふと、あの犬のことが気がかりなのは未来を考えたり物語に頼らないからだと気がついた。
受動的なだけのあの犬が唯一信用できる存在になった。
ちょっとシニカルでメタな言い方をしてみると、「感動的な物語は嘘臭くてどれも自分たちに当てはまらない」と感じている私を当てはめたのはあの犬の物語だったのだ。
結局のところ私もまた、自分を相対化して悲しみを認めるための物語を探していたわけだ。
今はこうして語ることができるし、とても平凡なことしか書いていないけれど、これはあの犬に自分を投影することでやっと整理できた気持ちだった。
☆
そして今度はあの犬自身の死。
最後にあの犬に会いに行ったとき近々死んでしまうだろうというのがなんとなくわかった。
名前を呼んでも聞こえていないらしく、私にはあまり関心を示さないまま、怪我した片足を引きずりながら庭のあちこちを嗅ぎまわっている。
自慢の毛並みは面影がなく、もともと皮膚病持ちだったのが悪化していた(皮膚病もこれまたシェットランド・シープドッグに特有の病気である)。
我が家で人間同様の扱いを受けていた頃には皮膚病のための効用も値段も格別なドッグフードを与え、加えて薬や検診でなかなか経済が困窮したけれども、平凡な中流幻想を持った一家庭の一種のステイタスでもあった。
母親の実家ではあの犬と年頃が近く種類も同じ犬をもともと飼っていて、二匹の老犬は仲が良く、その家では広い敷地に屋外飼いで自由に遊ばせてやれたので決して決して不幸な環境ではなかったと思う。
でもそれも続かず先の犬もあの犬が移ってしばらくで死んでしまった。
あの犬のその変遷は、私の輝かしい幼少時代の崩壊を象徴しているみたいで物悲しく見えた。
私は東京にいながら事後報告を受けているばかりだった。罪悪感があった。
東京に帰ってずっと色んな可能性を考えた。
私が地元に帰って心ゆくまで世話するとか、東京のアパートに連れてきて飼うとか(馬鹿げているけど)。
しかし最後に会った時の様子で「もう取り返しがつかない」というよくわからない気持ちが、でもひしひしと感じられた。
「他人の人生は救えない」という言葉が重みを持ってのし掛かった気がした。
きっと相手の内面の模糊とした悲しみを、私が言葉に変換して相手に投げ掛けてやることで、普遍的で誰とでも共有可能な「開けた」悲しみに変えて和らげてやる事はできる。
しかし言語化されていない深く根源的な喪失は薄らぐことがない。
言葉を持たないあの犬にそういう類の悲しみを持つ者の姿を私は投影した。
U´・ω・`U
身内の事情まで吐露してまで、これを書く(動機ともつかないような)動機を、規定を、冒頭にも書いてはみたけど、そこからどんどん分裂していってしまうよ。
自分自身が理解できるまで推敲したいような、徒労だという気がふとしてしまうような。
書くことに何をそんなに頼っているのだろう!