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2012.08.09

自慰行為っぽいことを書くんだけど、小学生のころ悲しくてどうしようもなくなると「口の無い人ごっこ」してた。
一日じゅう口を開かない、それだけのルール。喋らないし笑わないし食べない、生命の営みをやめてしまった生き物になったのだ(だから何も感じないさ)、という設定のひとりゲーム。
子供ながらに毎回「このまま自分は飢え死にするんだ」と決心するんだけど、精神的に煮詰まってきて一日と待たずにタガが外れて大泣きして終わるのがお決まり。
えずきながら温かいものを食べるとまさに五臓六腑に染み渡る、ああ生きてるっていう実感した。食べてるときも誰の慰めもないんだけどね。勝手に機嫌を損ねて勝手に感動して終了する一人よがりのゲーム。
悲しくてどうしようもなくなった理由だってさしたることじゃなくて「土曜日の午後に雨が降っていてなんとなくうら寂しい心地になった」とか。 あまりある厭世観エピソードのひとつ。 『女生徒』みたいなね。『キャッチャーインザライ』みたいなね。憂鬱な子供ね。

2012.08.09


2012.07.28


adobeのPremiereProとか使って動画作ったよ。

「セロトニンがでない」というのがここのところ口癖で、セロセロリン♪とか鼻歌まで歌っちゃっていたので、よし歌に昇華させて動画も作ったれ〜なんて。
それだけですよ、ええ。ギャグですよ。

2012.07.08

2012.06.23

高層ビルのてっぺんで、紅白の縞模様の鬼のツノみたいに生えてるやつ。クレーン。あれってビルが完成したあとどうやって降ろすのか、考えたことが無かった。
一度意識するようになってからは、あのクレーンにちょっとした畏敬の念さえ覚えるようになりました。大小様々なタイプが街中に散らばっているし、もしあなたに信仰が必要ならば、現代の大仏もしくはトーテムポールとして観光してめぐるのにぴったりなんじゃないかしら。

巨像恐怖症かは分からないけれど、ぱっと開けた視界に、距離感がつかめないくらいの、今にも動き出しそうな巨大な建造物があるとなんとなく脈があがるというか、反射的に逃げられる体制をとってしまう気持ちって分からなくはない。畏怖は畏敬に繋がりますね。古来から人は怖さの由来が分からないものを「崇め」「名前をつける」ことによって克服してきた歴史があり。

最近読んだSF小説に「夜間交換機」っていうのが出てきて、この電話みたいなものは何が未来的かっていうと、ふつう人は目覚めているときに五感で情報を拾って脳内で変換するけれど、このマシンは五感を介さずに情報を交換することができるのね。使うのは寝ている間に限られて、なぜかというと、目覚めている間に五感を介さず情報が頭の中に出現するっていうのは、見当職を失うことであって、トラウマを生むことなんだよね。言葉の隔たりなく情報を交換・共有できるんだから、他国語の翻訳も必要ない未来。憧れるなあ。でもこわいと感じる人もきっと多いよね。本能的な恐怖を克服して人間は近代化してきたなんて言うけれど。

2012.05.31

マイホームを建てたら、デザイナーさんが「こじらせて」しまい、やたら挑発的で新進気鋭な建物が建ってしまった。
どこが気鋭かというと、一本とて垂直に立っている柱がないのである。全部ななめ。直角・垂直なんて響きとはかけ離れている。傾斜の総和で、うま~い具合に釣り合いがとれている。緻密な計算でやっと建っている。
違和感を覚えつつもそのまま住み続けて、気がつけば築20数年を過ぎた。
経年劣化でちぢんだり浮き上がったりとガタが来てしまっている。絶妙なバランスで建っていただけにそれがちょいと崩れただけで今にも崩れ落ちそうだ。リフォームしよう。えーとえーと竣工当時の設計図は。あれ?無い!!…。

2012.05.25


2012.05.12

もう一ヶ月以上前になるけど、傷心して大阪に行った。さすらいのスナフキン。

心が傷ついたのですよ、ええ、とっても。来る日も来る日も自分を慰めているのにいい加減辟易した。なげやりに新幹線に乗った。なんてタフそうに言いたいけれど実際には主体的に大殿筋やら大腿二頭筋やらを動かして東京駅まで辿り着いた。それでも大阪行きの切符を買ったのはなかなか当てずっぽうだった。大阪弁の飛び交うチェーンのファミレスで一晩中ぼーっとしている私が情景として脳裏をよぎり、そのうちにすっかり頭を占拠されたのだ。想像力が狭いなあ、と人は言うかもしれない。まさにその通りなんだよ。「自分を慰めていた」っていうのは具体的に何をしてたかっていうとね、やっぱり都内のチェーンのファミレスで一晩中ぼーっとしていたんだよ。カンバセーションマイセルフ、ドリンク飲み放題。行動範囲の狭さじゃ団地の蟻にだって引け目をとらないよ。

2012.05.12

私は別段おばあちゃんっ子でもないんだけど、ゴールデンウィークに会ってきたから、ちょっとおばあちゃんの話。うーん、なんでそんな断りを入れて書き始めるかね。親戚について書くのはある種の緊張がある。物事との距離が遠すぎても近すぎても書くのには向かないんだな。

おばあちゃんは83歳。引き戸になったその玄関は鍵がかからないというほどのオンボロ家に住んでいる。公道にせり出す形で家の前に停められているのが廃車ではないことから、そこが廃墟ではないことが道行く人々に窺い知れる。この家のボロさにかかればおばあちゃんなんて新品肩落ち程度のものだ。だって外に停まっているその白いハイエースを乗り回しているのはおばあちゃん本人なんだもの。足腰が丈夫で、ほんのつい最近まで種屋の仕事も続けていた。しかしながらそのオンボロ屋敷は敵を欺くための隠れ蓑で、実は玄関をくぐると皇室さながらの思わぬ空間が広がっている。本棚をくるっと反せば隠し部屋という具合にね。もし真実だけをありていに言うほうが好まれるなら、オンボロ屋を内側から順にリフォームしていると言い替えることもできる。近々外観も手入れされて鍵のかかる立派なドアが付く予定です。

2012.05.09

利用駅が再開発している。こっちが入り口になってそこに広場ができてバス乗り場があっちにやられてこっからここまで階段がのびて。踏みつけられ糞や吐瀉を撒かれ、雨に洗われ埃がこびり付いてひび割れかかったアスファルトやらブロックタイルやらが、碁盤の目のように掘り返され埋め立てられていく。ますます活気に溢れていく街で、ピカピカな面持ちで人々に踏みつけられる予定の、その再舗装待ちの地面にはスプレーでダイレクトにメモがしてある。幅とか高さとか数値的な計画メモ。私もそこに書き込もうか白チョークで。ここにキッチン、このへんお風呂。超・駅近物件ですね。メモの中には「ここは直線で」というのもあった。これはそんなに違和感ないと思うんだけど「できればなだらかに」というのもあった。「できれば」って、「もしダメでも真っ向な手立てはないけどね」っていう消極性漂うあの「できれば」だよね?「できればムカつかずに生きたい 著・田中ランディ」の、あの。「できれば今日中で」ってお願いされて、現実には今日中にできる見込みでスケジュール組まされてる、あの「できれば」。「できればヤラせて下さい」って言われたことはありませんまだ。うーん、いくら緻密な設計がなされていても、元々に埋まっているものとの干渉だったり、なぜか寸法足らずだったり、最終的には現場判断で、素人にはこれっぽっちも分からないからそんな想像するしかないけど、日常語で書かれちゃうと笑っちゃうね。いざ工事が終わって妥協点がどこでとられたのか見るのが楽しみです。
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