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2011.06.16

七歳から飼っていた犬が死んだ。
老衰で、実家の方でもう埋葬したという連絡を受けた。






私が上京するまでの11年間、多感な年頃を一緒に過ごした。
血統書付きのシェットランド・シープドッグで牧羊犬らしく活発に走りまわり、この犬種特有のどこかオドオドとした困ったような顔つきで警戒心が強くよく吠えた。

死に顔は見てない(これを書きながら信じられない)。

死という字面が不吉だ。実はまだ生きているのに、その字の呪いによって死ぬような思いがする。

あながち間違いではないようにも思う。
死は(存在しない)。(存在しない)(ゼロ)(不可視)(未知)が死なのだけれど、「犬が死んだ」と言うときには死は可視的なもの、概知のものになっている。
言葉がなければ死は認識しえない。
認識を促す程度には、言霊ってほんとにあるよね。

言語化した時点で本来の喪失は遠のくんじゃないだろうか。とても健全な、他人と分かち合える悲しみに変容する。
それは死者との決別だ。心から故人を偲ぶならば口をつぐんで無意識のなかに留めておけば、いずれ現実と夢の境界が曖昧になって、生者と死者の区別が付かなくなる。
しかし社会性を持った平均的な大人はそんな選択はしない。フロイトが糸巻き遊びの例で示したように、主体的に死をあやつることから人間は形成されている。

私はこれを書きながら、「エクリチュールに取り込むことで死んでしまうことへの不吉さ」を感じている私から、「死んだ犬をいつまでも生きていると思い込んでいる」ことのほうがよっぽど不気味だと思う私への移行を果たそうとしている。
ロランバルトのような喪の日記ではなく、筋の通った物語をつくることに尽力するのだ。。

あの犬への親しみが一層増すと同時に「共闘感」というような気持ちを抱くようになったのは、私の母親が死んでからだ。
親族皆が悲しんだ出来事だった。彼らはあたりまえに既視感たっぷりな葬式をやり、生前の病に侵された姿を思い浮かべ「頑張ったね」と安らかな顔を撫で遺体を焼く。日をまたいで、故人にまつわる思い出語りに耽りながら遺品の整理をし、しかし着々と日常へ帰還していく。
私は違和感を持っていて、私だけが違和感を持っていると感じていた。
母が入院してからも、死んでからも、私はあの犬のことが気がかりだった。なぜだか気が付くまで時間がかかった。

あの犬は母に一番懐いていた。母がいちばん面倒を見ていた。
母と寄り添って寝るのが習慣だった。犬らしいその忠誠心は寝ている母の足をしばしば鬱血させた。
母の病気が判明したのち実家に帰省すると新しい空気清浄機があった。犬の抜け毛が肺に影響して病気を悪化させるということだった。
あの犬は母の帰宅の車の音がするのを窓際でいつも待っていたー母は入院中であってもー、そのうちにあの犬は長年住み慣れた家から母親の実家へ移された。みんな疲れていたからだ、犬の面倒が見られなかった。そしてあの犬が愛した母は死んだ。

犬だから邪見にされたのもあるけど、犬は言葉が分からないから、皆好き放題言ったし、尊重すべき意思や主張を犬から聞きだすこともできない。

あの犬が家を移されたとき既に老犬だった。
忠犬ハチ公のようなよくできた物語のように、誰にも踏み入られずに自分勝手に、静かに死者との一対一の時間を送ることに余生を費やすのは、現実には難しいものだ、なんて思った。

感傷的なだけの悲しみが後から来るのを覚悟しながら今は俗的な雑事に追われておくのが頭のいいやりかた。
私の母のためによく働いてくれる親族たちは、私の目には急き立てる流れの一要因にしか見えなかった。死ぬ当人の母でさえも忙しそうだった。
「悔いのないように母親との時間を大切にしろ」と人生の先輩たちに言われる。
「悔いのないように」という設定自体が目の前の母親を飛び越して未来のために設定されているから、「これだから大人は不純だぜ」と思った。
それまでに私は父も亡くしていて、人が死ぬという事柄は、日常にきっちり収まったまま、痕跡だけ残していくものだと実感していた。
死んだ当時には現実感がなくあっけらかんとしているけれども、数日から数年かけて痕跡は存在感を増してくる。それにうんざりしていた。
どんな悲しい物語でも、当事者はそれほど悲しくないもんだ。
悲しい物語を人々が語り継ぎたがるのは、自分を登場人物に置き換えて立場を相対化して、自分たちが悲しい目に遭っている事を認めてすっきりするためだよね。物語はすべて未来にむけられている。
私は私の代替不可能な経験である母の死を、悲しみに到達する前によく見極める猶予が欲しかった。

こう書いていても自分で反抗期?厨二?という感想しか持てないでいるのだけれど…

ある日ふと、あの犬のことが気がかりなのは未来を考えたり物語に頼らないからだと気がついた。
受動的なだけのあの犬が唯一信用できる存在になった。

ちょっとシニカルでメタな言い方をしてみると、「感動的な物語は嘘臭くてどれも自分たちに当てはまらない」と感じている私を当てはめたのはあの犬の物語だったのだ。
結局のところ私もまた、自分を相対化して悲しみを認めるための物語を探していたわけだ。
今はこうして語ることができるし、とても平凡なことしか書いていないけれど、これはあの犬に自分を投影することでやっと整理できた気持ちだった。

そして今度はあの犬自身の死。

最後にあの犬に会いに行ったとき近々死んでしまうだろうというのがなんとなくわかった。

名前を呼んでも聞こえていないらしく、私にはあまり関心を示さないまま、怪我した片足を引きずりながら庭のあちこちを嗅ぎまわっている。
自慢の毛並みは面影がなく、もともと皮膚病持ちだったのが悪化していた(皮膚病もこれまたシェットランド・シープドッグに特有の病気である)。
我が家で人間同様の扱いを受けていた頃には皮膚病のための効用も値段も格別なドッグフードを与え、加えて薬や検診でなかなか経済が困窮したけれども、平凡な中流幻想を持った一家庭の一種のステイタスでもあった。

母親の実家ではあの犬と年頃が近く種類も同じ犬をもともと飼っていて、二匹の老犬は仲が良く、その家では広い敷地に屋外飼いで自由に遊ばせてやれたので決して決して不幸な環境ではなかったと思う。
でもそれも続かず先の犬もあの犬が移ってしばらくで死んでしまった。
あの犬のその変遷は、私の輝かしい幼少時代の崩壊を象徴しているみたいで物悲しく見えた。

私は東京にいながら事後報告を受けているばかりだった。罪悪感があった。
東京に帰ってずっと色んな可能性を考えた。
私が地元に帰って心ゆくまで世話するとか、東京のアパートに連れてきて飼うとか(馬鹿げているけど)。
しかし最後に会った時の様子で「もう取り返しがつかない」というよくわからない気持ちが、でもひしひしと感じられた。
「他人の人生は救えない」という言葉が重みを持ってのし掛かった気がした。

きっと相手の内面の模糊とした悲しみを、私が言葉に変換して相手に投げ掛けてやることで、普遍的で誰とでも共有可能な「開けた」悲しみに変えて和らげてやる事はできる。
しかし言語化されていない深く根源的な喪失は薄らぐことがない。
言葉を持たないあの犬にそういう類の悲しみを持つ者の姿を私は投影した。

U´・ω・`U
身内の事情まで吐露してまで、これを書く(動機ともつかないような)動機を、規定を、冒頭にも書いてはみたけど、そこからどんどん分裂していってしまうよ。
自分自身が理解できるまで推敲したいような、徒労だという気がふとしてしまうような。
書くことに何をそんなに頼っているのだろう!

「犬が死んで私はすごく悲しい!」

2011.05.29

一昨日終了した展示会がコンパニオンの多いブースで、みんなでわきわきしながら開場前など写メを撮りまくりました!

日立建機ブースはショベルカーの実機(ハイブリット型と双腕タイプ)を展示していたのですが、お客さんも「欲しいなあ〜」とか「被災地で役立っているよね」と大変反応が良く大盛況でした。


(iPhoneより)

2011.05.12

食用菊をもしゃもしゃ食べるイグアナ。

花の形のまま与えるとよく食べます。根元の硬いところを取ってやるので、花弁をバラバラにしないようにするのは大変。

瞬膜(第三の瞼)がバッチリ写ってます。フラッシュが眩しかったかも。

と、大変貫禄の出てきたイグアナ様ですが、初めてうちに連れて来られた時はこんなに小さかったんですよ。2008年の頃です。



飼い主としては大変しみじみとしてしまいます。


寝顔はいつ見てもかわいいね。

寝顔は見ちゃイヤッ (1) (講談社コミックスフレンド (277巻))

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2011.05.11

アート専門の情報サイト「artgene.」をご存知でしょうか?
そのiPhoneアプリが登場しました。活用法の紹介に私がちょこっと写ってますので見てみて下さい。

私もMy iPhoneにアプリダウンロードしましたよ。
現在位置から近くの展覧会をGPSで割り出してくれる機能がすごく重宝しますよ!おすすめです。

アートといえば、最近、村上隆の「芸術闘争論」を読みました。
私、美術にあまり詳しくないし、ましてや作家志望なんかじゃないのですが、村上氏も登壇されたシンポジウムに行ったこともあったりして、氏の活動に興味がありました。
よく買い物に行く中野ブロードウェイにもギャラリーがあったりしてね。
超資本主義の中での「美術」という一分野に属している人でないと素通りしている本かもしれませんが、業界人による業界人のための本ではなかったです。
一人の人間の私小説的な内省を肯定する場になっている鎖国的で内輪向けの日本美術を、世界に通用する、誰しもに関わる文化活動の土俵に引き戻すことが目論まれているわけで、この本自体、それがパフォーマティブに表れていると感じます。
日本人なら誰でも読んで、通底する問題意識を他の場所にも見いだせるんじゃないでしょうか。
現代美術の構成要素の分析の明晰さ、そしてそれを披露してしまうこと。ハイコンテクストなオタクカルチャーを西欧美術の文脈に「翻訳」した村上氏だからこそ書けることですね。うむ。

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2011.05.02

一昨日、昨日と北茨城のほうに遊びに行ってきましたが、あちらは今が見頃のようですね。

これは東京で一ヶ月くらい前に撮ったものです。

2011.03.13

最初の地震発生から二日が経ちました。

この土日は従事する予定だったイベントが中止になったので「ヤシマ作戦」(節電)しながら自宅にいました。

一昨日私はビックサイトにて行われた「建築建材展」の岐阜県多治見市・笠原町美濃焼振興協議会による「セラミックタイル美濃」ブースで仕事させて頂いておりました。

「美濃カフェ」というコンセプトでブースの中に設置されたカウンタースペースにてケータリングをしていました。
神谷デザイン事務所さんが手掛けた、どこもかしこもタイルで構成された空間で、お客様にお出しするコーヒーのカップも全て美濃焼でとてもおしゃれだったんですよ。
写真撮り忘れてしまいました。

割れ物を置いてるのでヒヤっとしましたが微塵も崩れることなく、こちらのブースから怪我人が出ることはありませんでした。
展示会自体が30分ほど早く切り上げになり、都内は交通が混乱したものの、私はバスと地下鉄を乗り継いで、普段の利用駅より手前で降りて少し歩いたものの順調に帰宅することができました。

帰宅しながら思ったのは、情報を持っていない人が意外に多いということ。道で出会った人に電車の運行状況などをよく訊かれました。
「ラジオを聞く場合は(バッテリーに余裕がある場合に限られますが)イヤホンで聞かずスピーカーで周囲にも流す」などの心遣いは思っている以上に有用なんじゃないかなと。
私自身は幸いなことにiPhoneのバッテリーチャージャーを持ち歩いていて帰宅までずっとTwitterを追ったりNHKのミラーUST見たりできていて、全くの自分本位で動いていたのですが、帰宅途中通った門前仲町の商店街のお店からラジオが大音量で流れていてハッとさせられました。

深刻な被害を受けているのは震源地であり、都内の交通の混乱を震災のように語ってはいけないのは大前提ですが、
「都内在住で自身も帰宅できず、家族の安否もわからず」といった状態で心配な一夜を過ごした人もいたはずで。
現に11日にJRストップのためビックサイトから帰宅できなかった人も多くいたようだし、同じポジションのコンパニオンさんも「宮城の両親と連絡がとれない」と言っていて。
そう話したのは揺れの直後で、入ってきた情報は震源の場所のみだったのでまさかこれほどの被害だとは思っていなかった。

私が飼っているイグアナ、本棚の上で生活しているもんだから死を覚悟していたのですが無事でした。
人間に比べてペットを引き合いに出すのは不謹慎だとは承知してますが、ペットですらシュレンディンガーの箱を開けてみるまでの時間は本当に怖くて長い。
一時期部屋(主にイグアナの様子)をパスかけてUSTしてたんですが、今も継続していれば良かったと思いました。

Googleの消息情報を登録するサイト、都内の帰宅困難者避難所の情報…。
今までの震災から比べたら、ネットのインフラ整備によるところはかなり大きいですよね。
電話は通じなくてもTwitterのDMやSkype、Gmail経由で大事な連絡は取り合えました。もっとそちらで連絡を取り合える人を増やしておくべきだと感じると同時に、災害時の伝言ダイヤルとかググらないと分からないレベルだったので、ネット環境になくても出来る予防策をはっておかなくては、と感じました。

私の実家は新潟県西蒲原郡(現:燕市)で、2004年に起きた中越地震(阪神淡路大震災以来の震度7)当時、私は高校生で新潟にいましたが幸い近辺で被害はありませんでした。
レジ打ちのバイトをしていたスーパーは支援物資を調達する人で溢れ惣菜は連日売り切れでした。
お客は皆さん、「阪神淡路大震災の際に食料の不足が深刻だったから」と口々に言いながら自ら車で届けに行く善意の塊のような人達だったけれど、届き過ぎてしまって被災地での仕分けが大変だったようですね。
今回中越地震の経験が活かされて、Twitterなどでもボランティアに関する注意点が呼びかけられていますね。
知人にも水道が止まって困っている人たちがいるけれども、東京でできることは節電と募金、あと時期を見極めての献血くらいでしょうか…。

中越地震の時など思い返してみると正直なところ、いわゆる「運命」などを心の隅で信じているふしがあったのですが、今は完全に確率の問題なのだとひしひしと思います。

考えうる限りの予防策はしておくし、みなさんもして下さい。

月並みな言葉ですが、被災地の方はもとより、また被災地を心配されている方も、皆様どうかお体ご自愛下さい。

(iPhoneより)

2011.02.27

(1,5…NikonD3 2,3,4…iPhone+Cool fx)

2011.01.30

Nikon D90 Ai AF NIKKOR 35mm F2D