続・現アラサーが小学6年生から大学半ばまでロリィタだったころのこと話すね

2021.05.18

前置き
5年前に「現アラサーが小学6年生から大学半ばまでロリィタだったころのこと話すね」という文章を書いた。ロリィタファッションを愛好していた時期を振り返ったその文章を読み返してみたら、もうさっぱり覚えていない情報ばかりで面白かった。まだおぼろげにでも記憶が残っているうちに書き留めていて良かったと思った。
かなり雑に書かれているし、自分の過去を精算したいがためにかつて傾倒していた文化や作り手を貶すような表現もしていたことに気づき反省した。

長いロリィタファッション遍歴に終止符を打った理由を「かわいいものに悶え苦しむのがもう辛くて脱しようと思った」と淡白にしか表現できなかったことを懐かしく思った。今はもう少し具体的に表現できるが、今度は忘れていく一方だと思うので書き出してみる。
尚、他のロリィタちゃんの共感は得られないと思う。一個人の話である。

シンディ・ローパー

子どもの頃に観たものまね歌番組にシンディ・ローパーのそっくりさんが出ていた。特徴だけ安っぽく誇張されていて、そのディーバのこともカリスマ性も知らない幼い私の目に奇天烈に映った。


ファッションに興味を持ちだす年頃になると、流行りのファッションに対して同じ奇天烈な印象を受けた。マスメディアの影響が強かったあの当時の凡庸な「おしゃれ」とは、ファッションアイコンとされる人物がTV番組や雑誌などで身につけていたアイテムと全く同じものを消費したりコーディネートを忠実にトレースすることだった。哲学用語でいうシミュラークルという現象だと思うが、芸能人のコピーをする校内カースト上位の先輩のコピーをする後輩…という風に贋作になるにつれ、オリジナルの持っていた革新性や統一感とは切り離された珍妙な価値ができていき、みんなそれを共有することを楽しんでいるようだった。私は芸能人にも学校にも憧れる人がおらず、そのコミュニケーションに飛び込めなかった。

お姫様を書いた子どもの落書き

それに対してヨーロッパのお人形や絵本の中のお姫様が「オリジナル」だとひと目で分かるロリィタファッションは受け入れやすいものだった。その中でも流行はあれど、個々人がオリジナルを追求し、全身のアイテムを総合して定石通りの統一感があることがおしゃれの判断基準となっている世界だった。考えてみれば、紐の結び目をリボンと呼んでかわいいと判定することだって珍妙な刷り込みなのだし、またもともとそういう女の子向けとされたモチーフは好きではなかったのだが、ロリィタちゃんの孤高な佇まいに圧倒的な魅力を感じたのだった。

ロリィタのアイテムに手が届くようになるまでは、ロリィタちゃんたちが纏っている裕福さにも魅せられていた。お年玉を握りしめて上越新幹線でたどり着いた原宿という土地で、そこでしか手に入らない豪華な服を世間の目を憚らずに着れる、不文律の文化を持った美しいギャルたちは思春期の私にすぐに劣等感を伴った憧れを抱かせた。彼女たちの無敵でいじわるそうな態度すらも舞踏会への入場券のようだった。

罠にかかる鼠

スカートの膨らんだお洋服が普段着になり、かわいいものに脳を刺激され続けたことで報酬系が出来上がったのか、かわいいものを引き金として胸を締め付けられ、あらゆる感情が想起されるようになった。
子どもの頃の手触りや匂いのような原初的な記憶たちまでもが顔を出すきっかけを見つけたみたいだった。
夏休みの陽炎に似た幻想か誰かの夢みたいでいて、脳に針を刺して直接信号を与えられたような圧倒的な感覚だった。苦しい陶酔感だった。

ロリィタのお洋服を着こなすには一般的に苦労があり、私はお洋服と自分をアイデンティファイしていくにつれて、かわいくあることに価値を置きすぎるようになった。かわいければ価値があり愛されるのだと思い込み、自分は愛されないだろうという漠然とした不安を、かわいくないせいだという理由に押し付けた。
そうして「かわいいの理想像」は肥大して極端になっていったが、その理想像が世間的には「派手な女」というカテゴリーに属するとは気づかなかった。世間には「かわいい」「かわいくない」の他にも色々な評価があるのだった。「かわいい」だって繊細に揺れ動く相対的な価値だったのに、私はやっぱりコミュニケーションに遅れをとったままだった。

私は「普通」に飽き足らないロリィタちゃんでも、独自の「好き」を貫くロリィタちゃんでもなかった。みんな本当は私と同じものが普通に大好きなのに、着るのが面倒だったりお金や時間がかかったり、同調圧力で追い求められないだけなのだと思っていた(ばかだなあ)。
かわいいものに胸を締め付けられるような痛みや劣等感も他人は感じていないことに気づき、この苦しみは刷り込みで、逃れられることに気づいた。かわいいものから自分を遠ざけることにした。それはうまくいき、今は全くロリィタ味のないファッションを心から楽しんでいる。

時計兎の懐中時計

私は今もし初対面のロリィタちゃんとお話しするならつい言ってしまうだろう、「私も若い頃はロリィタファッションしてたんだよ」と。
これは当時の私が最も憎む言葉だった。初期衝動を忘れて凡庸になった、諦めた大人なのだと見下しただろうと思う。
ロリィタファッションは貫いて着続けることが度々評価されるファッションであることも相まって、つまらない大人になるくらいならば何も知らない物分かりの悪い子どものままでいたいという反抗心が当時はあった。

私は今の自分を楽しんでいる。さまざまなことを知った平凡な大人になることを素敵だと思う。でもどこかの並行世界にあの頃の気持ちを貫いている自分がいるのかなという感じがする。
まっすぐに引かれた一方向の時間の概念は「変わること」や「知ること」「発展すること」を優位にしてしまう。
「変わらずにいること」の評価は変わった先からでしか証明できないというジレンマがある。
「一周回ってかっこいい」と評価する立場には初期のかっこよさはない。
私は変わらずにいた私にしか見えなかった景色があっただろうと思う。変わることを諭した誰もが想像もつかない景色があったと思う。今の私と比較できるものではなく多様性のひとつなのだと思う。

お読み頂きありがとうございました。
よければこちらも観ていってください。