ヴィーガンに進化した
2019.04.21
2007年に私が、今後一切肉を食べないことを決意したきっかけは、海外にベジタリアンを実践している人が大勢いると認識したことだった。彼らはお肉を食べなくても健康上の問題がない。お肉は嗜好品でしかないのだと知った。お肉を必要としない彼らはカッコよく、食べたいから食べる自分の欲望が卑しく思えたのだった。
それから今年(2019年)になって卵や乳製品も食べず、毛皮や革製品も買わないヴィーガンになるまで、かなりの時間を要してしまった。これには勉強不足の占めるところが大きい。
知識があれば、植物性の食品だけで、より健康に生きられることが分かるし、美味しいヴィーガン料理を作れる。そして動物がどれだけ凄惨な目にあっているかを目の当たりにする。何より、ヴィーガンは怖い人たちではないのだと知った。
ヴィーガンになったことで感じた後悔は、他のヴィーガンの方も言っていたが「もっと早くヴィーガンになれば良かった」ということだった。
この後悔は誰にもしてほしくないと思う。未来のあなたが動物の犠牲に心を痛めるようになっても、犠牲は取り戻せない。
ヴィーガンには、
倫理的に配慮するエシカルヴィーガン、
肉食の地球への環境負荷を考慮してのヴィーガン、
健康のためのダイエタリー・ヴィーガン
など、出発点の問題意識がそれぞれある。
私の考えは完全にエシカル・ヴィーガンのものであり、動物が不当に搾取されているから肉食に反対する。
ヴィーガニズムに対してカーニズムという言葉があるが、これは犬や猫を愛護する反面、牛や豚の肉を食べるようなイデオロギーのことを指す。日本人の多くはカーニズムであり、肉を食べることの矛盾や罪悪感、葛藤を「いただきます」という感謝の言葉で覆い隠しているのではないだろうか。
それに対し、ヴィーガニズムの思想には矛盾や葛藤の余地がない。
私がヴィーガンになるまでにも、様々な問いや葛藤を抱いたが、答えはすでに用意されていた。
例えば、ヴィーガンへの代表的な反論として、「植物の命は考慮しないの?」などがあるが、これはプランツゾウ論法と呼ばれ論破されている。
(http://vegan-encyclopedia.seesaa.net/article/446729098.html)
ヴィーガンになって得た大きな気づきがある。
私は、それまで自分をマジョリティに属していると自認したことがなかった。
特権を持っているとも思っていなかった。
女であること、地方出身であること。両親を早くに亡くしていること。精神疾患の投薬治療をしていること。どちらかといえば「持たざるもの」で、それはマイノリティ側の良き理解者だと思っていた。
ところが、ヴィーガンになって起こったことは、圧倒的なマイノリティ体験だった。
私はマイノリティの人生を舐めていたんだと悟った。
どんなに言葉を尽くしても、どれだけ心を痛めていようとも、どれだけ根拠を明らかにしても、親しい人にさえ否定される。知識人でも、動物の権利に関しては度肝を抜かれるほど頑なに拒否する。
普段、弱者について語る人でも、レストランでフォアグラを頼もうとしたり、開かれた想像力に重きを置く人でも、肉食は文化だから否定できないといった。
「自分は中立だ」という不動の態度。でも、よく考えて欲しい。動物という被害者がいる。肉食する人は加害者で、ヴィーガンが中立なのだ。
私はヴィーガンなんて、決して、好きでやっているわけじゃない。ただ、凄惨な状況に置かれている弱者を見て、どうすることもできず苦しみ、自分に選択できることがヴィーガンだっただけに過ぎない。
ヴィーガンへの批判は多いが、救いなのは、それぞれの批判には、これまでの歴史的な解放運動が反例として持ち出せることだ。
「お肉は美味しいから食べる」という場合、それは、「気持ちいいからレイプする」のと同じ構造を持っている。
「肉食は文化だ」という人がいる場合、「奴隷制は未来に残すべき文化であったか」と尋ねることができる。
「ヴィーガンがそんな高圧的な態度じゃ理解されないし広まらないよ」と言われても、「黒人が『私たちの権利を認めてください』と頭を下げてきたか?」と言える。
私は、有色人種や奴隷や女性を解放する運動が、いかに困難を要したかを切々と感じる。
その立場は現在の動物なのだ。
Dominionという、YouTubeでも公開している工場畜産に関するドキュメンタリー映画がある。
私はこの映画を見たとき、動物を暴行する労働者に怒りを感じたが、すぐにこの人たちも被害者だと思った。従わない動物たちを日常的に暴行することで、明らかに精神を壊してしまっているように感じる。
工場畜産に従事する人間は移民だったり、階級が低く低賃金で扱われている。(※『ビーガンという生き方』Mark Hawthorne、緑風出版)
これらの事実を知って、私の中の「持たざるもの」という意識は変わった。自分の持っている特権を自覚し、そして自己弁護に回らないことが必要だ。この人たちに暴行を強要しているのは我々なのだ。
ヴィーガンがヴィーガンではない人にDominionのような動画を見せると「過激だ」と言われる。だが、過激ではなく、今この瞬間にも行われている事実なのだ。そして手を下しているのは我々自身だ。