免罪符としての「いただきます」

2018.01.23

子どもの頃、家畜や魚は「残さず食べてあげれば喜ぶ」のだと親に教わった。
豚さんが可哀想だから食べたくない、と子どもに食卓で駄々をこねられたら、さぞ面倒だっただろう。
私はそのときその言葉を受け入れたが、知性が育ったいまは、どうして「喜ぶ」のだろう、と問うことができる。

TV番組「ザ!鉄腕!DASH!!」の1月21日付けの放送で、要注意外来生物であるイグアナを捕獲して食べていた。
Twitterでは「動物に罪はないけれど、番組では骨の髄まで残さず食べてくれたから報われる」というような意見が多く投稿されていた。
その意見には同意するし、番組に批判は無いのだが、私は常々思っていたことがある。それは「残さず食べればよい」という論は、しばしば「動物が可哀想」という気持ちと、自分が「動物を食べたい、食べるのを辞められない」という相反する感情に蓋をするために使われていないだろうかということだ。「いただきます」という感謝の言葉を免罪符にして、思考停止していないだろうかと。

飽食なのに、イグアナをわざわざ食べる必要はないのかもしれない。人間に食べられても、あるいは、ただ殺されるだけでも、イグアナにとってはどちらでも良いのかもしれない。
自分の罪悪感を和らげるためだけの感謝になっていないだろうか、と自問することは、普段あまり無いように思う。

「いただきます」の裏に、現実では、目を逸らしてはいけない問題が多くあると思う。
野生とはほど遠い環境に置かれ、虐げられている動物がいる。
一生を拘束されて生きる生き物や、痛みつけられて殺されていく生き物がいる。

同日の「ワイドナショー」の放送で、ロブスターを生きたまま煮沸するなど、自然ではない痛みを与える調理法を禁止する法律がスイスで決まったというニュースが取り上げられた。失神させてから調理することが義務付けられたそうだ。
甲殻類は人間と同じように痛みを感じる器官があるという研究結果を私は以前から知っていたので、妥当なことだな、と思っていた。
ニュースが読み上げられた後スタジオが失笑するのを見てとても驚いた。
「そもそも食べなければいい」「欧米の価値観だから仕方ない」「日本には関係のないことだ」「日本の踊り食いの文化を否定することだ」「そんなことよりも人間を先に助けるべきだ」などの批判の声が上がっていた。
私はせめて「日本とは価値観が違うけれど、考えさせられるニュースだ」くらいの肯定はもらえるものだと思っていた。ショックで体が震えた。

どのように生きてどのように死ぬのが適切なのか?それは私は知らないしまだ分からない。ただ、だから、何が他者にとって残虐なことなのか、想像力を巡らして、考え続けたいと思っている。

人間はこれまで、他者の痛みへの想像力を広げることによって差別をなくしてきた。
もちろん感情移入を広げ過ぎれば、植物さえ食べられなくなる。差別撤廃が新たな問題を生み出すことだってある。それでも、感覚を麻痺させてはいけないと思う。
少なくとも、ロブスターの権利を考えたスイスは思考停止していない。「欧米の価値観」だからではなく、我々の、他者の人生への想像力が未成熟なのではないか、と問いたい。