全ての女性はフェミニストであるべきだ

2016.02.19

私は有識者ではないし色々な責任を引き受ける準備もないし、社会には他に解決すべき問題が山積みだ。それでも私はフェミニズム論者でありたい。「全ての女性はフェミニストであるべき」だと考えている。なぜ全ての女性がフェミニストにならなければいけないのか? 今の私たちの社会には「女性」と「人間」しかいないからである。社会が「猿」と「チンパンジー」で構成されているとして、チンパンジーが疎外されている。チンパンジーからの主張は「私たちも猿だ」だろうか? 違う。「お前たちはゴリラだ」。この主張ができるのはチンパンジー側のみだ。だから全ての女性はフェミニストであるべきなのだ。

「女性」と「人間」しか存在しないことに実感が湧かなければイメージしてほしい。「男になる」とは「社会的人間になる」と同義だ。その通過儀礼は男性のみが獲得できるもので、女が性転換をして「男になった」ところで、「大人になった」わけではない。
対して「女になる」は性別や身体、そして身体の拡張としての「身に纏うもの」を変容するだけで獲得できる意味が全てだ。
女に見える動物はあまりいない。ゴリラもイグアナもイワシも。だがピンクのリボンを頭に結んでやれば女に見える。女とは身体的記号が全てで、男性にはその身体がない。男性は神と同じく性別のない無色透明で中立な存在で、性別を持っているのは女性だけだ(この文章ももしも「あたし、〜と思うのよね。〜なのかしら。」と書いていたら、もっともっと公共性のない随筆と受け止められるだろう)。そういう意味で「女性と人間しかいない」。

男性の中にもフェミニストはおり、彼らは「女性を救ってやる」というまさに男性中心主義に陥る危険と戦っている。そんななか女性が率直に権利を主張せずどうする?
なぜフェミニストが責任を負わなければならない? 世界の半分は女性なのに?

争いごとを嫌ってフェミニズムを退けることはある。場面単位で発生する。「個人の我慢くらいで済むのなら」、と。
なぜ個人的、家庭的なことは政治的、公共的なことと切り離されて考えられるのか?
権利をめぐって争うのは持たざるものの証明であって、育ちが良いと古き良き女性像に同化することに疑問をもたなかったりする。
男性の一歩後ろを歩くような女性は美しく、美しさゆえに内面化されやすい。女性は「おしとやかにしなさい」「股を閉じて座りなさい」などと母親を通じて、男性を意識するよりはるか昔から「身体」を矯正される。そして進んで矯正されていく。奴隷が奴隷であることにアイデンティティを持ち、自分の子どもを奴隷に育ててしまうように。

そういった奴隷はフェミニストにとって障害か? そうではない。
女性の労働をめぐって人と話したりすると、男性と対等になりたいのなら身体性を犠牲にしろ、長時間労働に耐え、身なりは最低限整えるだけにしろ、という至極真っ当で現実的な話になってしまう。
この話は裏返すと男性と対等になる気がなければ女性を売りにして良いという意味になる(風俗産業の是非の話にもなりやすい)。
すると、女性らしさの奴隷になることを批判する(女性らしくあることを否定する)ことと、女性を売りにする(女性らしくあることを肯定する)こと、これは正反対のようでどちらも同じ構図だということがわかる。
男性社会の中で生きるために女性らしくあるか女性を捨てるかの二択なのだ。「人間」か「女性」かの二択のまま変わらない。
それは女性解放のひとつの側面だが、フェミニズムの秘める可能性はもっとあると思っている。

できることは多様な性の在り方を肯定し推し進めることなのかなと思う。LGBTや既成の型に囚われない家族の形など。
ゴリラ以外にもオラウータンやチンパンジーを発見しようということ。自ずとゴリラも認知されるようになり、男性の生きづらさを解消することにも繋がると思う。

自身のことも再発見していかねばならない。政治施策がうまくいったり失敗したりするのを観賞するだけで終わらせてはいけないと思う。

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この間の朝のガラちゃん(イグアナ)。
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