この岸あの岸
2015.08.11
「自分が死ぬまでに達成できないもの」について思いをめぐらせるようになった。歳をとってタイムリミットに現実感がもたらされたのだろうか。それとも人生をかけてコミットしたいものがようやくできたのかもしれない。
「人生を物語化」する物事に懐疑をもって接してきたつもりでいる。政治とか宗教とか科学とか哲学とか占いとかあなたとわたしが同じ時代に生まれたのは運命だとか。人間は物語のなかでしか生きられないことは重々承知しつつなるべく相対的立場を好んだ。その性質は私のジェネレーションで語ることもできるが、新興宗教に没入したまま亡くなった母親のもとで育ったという個人的体験で語ることもできる。
ジェネレーションで語るならば、物語に没入する危険性を鑑みつつも「あえて」コミットするというメタ没入型のひとも多い昨今だ。タイムリミットに気づいていてクレバーだと思う。
タイムリミットを延ばせるとしたら草薙素子のように疑体化したりAiに脳データを移植するほかない。2045年と憶測されているシンギュラリティ以後にはそれも可能かもしれない。
シンギュラリティが起これば人間は単純労働から逃れ古代ギリシア人のように哲学に浸る時間が増えるという論が一方ではある。脳データの継承ができ死を乗り越えられるようになったら実存的哲学はどういう形になるのだろう?宗教は?
「自分が死ぬまでに達成できない」ことの根源はタイムリミットともうひとつ、達成したいことが他者によって阻まれているということだろう。オブジェクトのリミットがあるためであることが多いように思う。ひとつの神の予言の地を奪い合うこと。財産を奪い合うこと。動物の命を奪わなければ生きられないこと。
オブジェクトのリミットが超えていきやすくなっている。ストリーミングでの音楽配信がいま広まりつつあるように、モノを持つことが少なくなっているから。
タイムリミットを延ばせないなら、並行世界に移行して夢を実現するという方法もある。
この間「破壊衝動と性衝動を切り離すことに失敗した屍姦好きの犯罪者に生まれていた可能性を考えることがあるよ」と人に話した。死刑についての話になり、世間と利害関係が一致しなかった不幸な犯罪者は死刑ではなく仮想現実に送って自分の好きなように生きさせれば良いという結論に至った。死はまだ未知だから。
魂は有限か?宗教家の母親のもとですごく考えたことがあった。
魂という概念は私のなかであるときは固有に存在するものだったりあるときは理不尽な肉体と合理性の間の余剰物だったりあるときは思考回路のクセだったり、そのときの自分を支配している低レイヤーの物語のなかで形をかえたが、常にある概念だった。
ほとんどの宗教は意味づけの体系と呼べるから、宗教を排除して意味付けを無くされた私は意味について様々な角度から引いて見たり近づいて見たり、結局のところますます意味に親しむようになってしまった。無意味に死ぬ命があるのはなぜ?というように。
何も達成できなかったとしても小さな意味を見つけ物語に収まっていくのだろうという諦観がある。テクノロジーの発展は意味の彼岸に連れて行ってくれるだろうか。そればかり楽しみにしている。