薪をくべる(創作)

2012.09.18

シェアハウスタイプのアパートに住んでいる。
もとは邸宅だったのを改装してあり、それはそれは広大な庭が備わっている。意匠を凝らしたデザイナーズ物件と並んでインテリア雑誌に特集されることもある。シェアオフィスとしての利便性で入居した在宅ワーカーもいる。共用部の充実がとにかく比ではないのだ。

オーナーの父親がカナダの牧草主で、アパートのほうぼうにオールドカナダな要素があり、母屋になった共用部のリビングには薪ストーブがある。部外者の入室が比較的許されている部屋でもあって冬もクリスマス近場になると誰かしら仲間と薪をくべている。
薪ストーブは暖炉やなんかに比べて慎ましい外見の割におそろしく薪をくう。我々は5月から薪を運びはじめる。
我々とは私とアパートのオーナーだ。
オーナー自ら薪の調達やらメンテナンスやらを好んでやっており、私はそれを手伝う約束を担保にカナディアンウイスキーを貰う。

今日は”薪ストーブおさめ”の日だった。
「こんなものが出てきたよ」
私が雑巾を絞って給湯室から出てくると、灰の処理をしていたオーナーが電車の切符よりわずかばかり大きい銅板をよこした。それは焼けて鈍色の、水たまりに浮いたガソリンのような斑紋ができていた。図柄が精密に繰り抜かれていて、それは海亀がいる夜の海の情景だった。三日月と亀がぽつんと砂浜に取り残されている。満月じゃないから、ただの亀かもしれない。
その線にはカリグラフィのような独特のリズムがあり、切り絵の図版か何かといったところだろうと私は見なした。そんなものがあるのかすら知らないけれど。
他にもブランデーか何かのひしゃげた蓋がふたつと、大ぶりの金属ボタンが出てきた。
「酔っ払って誰か放り込むのかねえ。仕方ないなあ」

私にも薪ストーブ・リビングを好んで使う来客がいた。

彼は私より5つ年下で、救急救命士をしていて祖母と二人で暮らしていた。両親は彼が中学生の時に旅客機事故で他界した。
彼の恋愛感はヒモ的発想だった。それも致し方ないような容姿をしていた。いつも清潔ななりをしていて華美なところは少しもないのだが、身に付けるものは彼のために特別にあつらえたようにしっくりと馴染んでよそ行きみたいに見えた。
春に看護士の友人を通じて出会い、出会いたての頃こそお互い好意を抱いて接していたが、経済的支援をするつもりが私にこれっぽっちもないことが分かると彼はすんなりと射程を変えた。でも彼は非番になるとよく2人分の出来合いの弁当と少しのアルコールを手土産に薪ストーブのリビングでくつろいでいった。
「家の前に元カノが来てて帰れない。かくまって」
まったくいつもそんな調子だった。
近所の野良猫や彼の祖母の武勇伝や職場の変わった同期やなんかの話や、彼の数人の恋人たちについての下世話な話、会話には不自由しなかった。

私たちはシーズンオフの薪ストーブを囲んでしっかり冷えた缶ビールを飲んでいた。みょうがと青じその乗った冷奴も食べた。
彼がビールをあおるたびにお香の匂いがした。
「ばあちゃんが死んで昨日法事だった」なんでもなさそうに彼は言った。

秋に差し掛かって彼は突然体調を崩した。統一性のないもろもろの症状があらゆる器官から一斉に吹き出した。
しかるべき病院へ行くと精神科にまわされ向精神薬を処方された。
アパートにはかわりなく遊びにきてそのことを話した。
自分のことを語る彼の姿は世間話の種類を増やしただけに見えた。私にとっては季節の空気の変化と等質なものだった。

「睡眠導入剤っていろいろあるけど、インチキなやつはラムネ菓子だよ。食感もラムネなんだ。菓子の空箱に詰めて子供に渡しても、ペロッと平らげて元気に二箱目を要求してくると思うね」
あまり笑える話題とは思えないが、彼は心底可笑しいといった様子だったので私も笑った。
「今はそのなかでいちばん睡眠に関係しそうなのを飲んでるよ」

薪ストーブにその年初めての火がつけられた。
彼の目元は日を追って翳った。依然として陽気だったし、彼は職業体質的にもそれほど脆くないはずだった。

世の中には様々な種類のおせっかいがいる。
おせっかいの糸車やおせっかいのふいごやなんのをきりなく持ちだして、あれやこれやと継いだり剥いだりした挙げ句小首をかしげて持ち場に戻っていく。
とことんまで付き合う覚悟がないならいたずらに干渉すべきでないのだ、いずれにしたって。それが私流のおせっかいである。

彼は通院し続け向精神薬は増えたり減ったりし続けた。朝昼夕晩、処方箋は短期記憶からわずかにはみ出す量だった。
冬が深まるにつれて、彼にとってアパートに来る意味合いが変わったのは明らかだった。まず頻度が増えた。おそらく当直の日以外全部だ。それからやること。彼はきまって夜が更けてから電話をよこした。遠慮がちに、でも切実に。拒む権利は無いに等しかった。薪ストーブを前にロッキングチェアとソファを寄せて二人で並んで腰掛けて眠り、明け方に帰っていく、それが慣習的なことになった。
彼は眠った。そうしてやると眠れるのか、眠れそうな日にやって来るのか、あえては訊かなかった。私の義務と彼の負債が発生するからだ。おせっかいの乱用による功罪その1。

アルパカの毛で編まれたチャコールグレイとオレンジ色のタータンチェックのブランケットに頭からくるまり、ロッキングチェアーに体をねじこみ、両膝に顎を載せた格好で、彼は御守りを炎に透かして睨んでいた。
気がつけばそれを目にするようになっていた。そこらへんで売っている色とりどりの金襴布地やちりめん地とは違って、本体は白地にシンプルな三日月のマークが橙色でぼつんとあるだけで、ソフトなプラスチックで包んである。巾着型ですらない。二重叶結びだけが唯一それらしい装飾だ。
「新興宗教のだよ、ありていに言えば。僕のじゃない、信者だったのはばあちゃん」
私の視線に気が付いて彼は言った。
指を丸めた足先が僅かに座面からはみ出している。
「でもまあ、害悪なものじゃないよ。べらぼうに金を取るわけじゃないし、教義も人道に反する危険なものじゃない。現代に最適化された相互扶助の共同体なのさ。都会に越してからはあんまり見ないけど、元住んでたところではルームミラーに守札を下げた車をよく見たよ。あっちでは人気があるんだろうね」
彼はアザラシの焼きあがりを待つイヌイットの少年みたいに見えた。
毎度テーブル脇にグラス一杯の水をかかさず用意している。たぶん、頃合いを見計らって「睡眠にいちばん関係しそうな」薬を飲むんだろう。私はいつも先に眠ってしまう。
「夏風邪をこじらせて数日横になっていたんだけど、結局そのまま息を引き取ってしまったんだ」と彼は言った。
「握りしめた手をあけたらこれが入ってた。やっぱり棺に入れて燃しちまえばよかった」

私も毎日すんなりと眠れるたちではない。”その日”はたいてい寝る前の支度をきっちり終えてしまわないとベッドに横たわれない。そしていざ眠ろうとする頃には頭の中で洪水が起きている。望まないままにマドラーで頭をかきまわされていて、なぜそんなことをされるのかわからないし、わかろうという気も私の側にはさらさらないのに、洪水は私に留まり続ける。それは意味を成さない言葉の反響音に似ている。音の逃げ場がなくいつまでも天井でわだかまっている。洪水が訪れた時私に与えられる対処法は、図形を頭に描き、それを追うこと。だいたいそう相場が決まっている。どうしたって接点のない事象たちがソーダ水の泡のように浮かんでは弾ける。時に不吉な絵柄も浮かぶが気に留めない。図形に善悪や甲乙の区別はない。区別をするとそれらはたちまち反響音になり洪水を呼び戻してしまう。
図形を描く。図形を描く。イコライザの脇に表示された波は次第に弱まっていく。

その日は彼が青色の薬を取り出して、グラスの水と飲み干すのを見届けた。
私は少し退屈して、途方にくれていた。
私たちの間には以前のような世間話が著しく減っていたし、彼が来たのは3夜連続だった。電話越しの遠慮がちな声にも少し苛立った。二人で火を見つめて何をしているのかよくわからなくなっていた。他にやるべきことがあるのでは?そういえば、彼はアルコール類を持ってもこなくなった。
それでも彼の姿を前にすると少し同情する。薪ストーブの火に炙り出される彼は、磨耗してそれでも破れられない宿命の麻布みたいに見えた。
背後に投げ出された影が間抜けな悪魔のように幅をきかせている。
もしかして私達は彼に取り憑いた悪魔が炎で燻されて出てくるのを待っているのかもしれないと思った。そこで悪魔が忍び足でこの部屋を出ていくところを想像してみた。しかしそんなことは起こらなかった。
薪の立てるパチパチという小気味いい音が響き、樫に少し混ぜた桜の薪の匂いが鼻孔の天井を撫でた。
「昔、パンケーキを追いかける絵本を持っていた。めくってもめくってもカラフルな街が広がっていて、そのあいだを縫うようにパンケーキが転がり続けるんだ」
私の退屈に気がついた彼が言った。
しかしあまり気のきいた話ではない。
火の規則的な揺れでだんまりとした眠りが運ばれる。乾燥した目が瞼を閉じたがっている。
それでも私はいくばくかの想像力でパンケーキを思い描いた。想像するうちに、しなやかなパンケーキは車軸から外れたタイヤにすりかわった。そのタイヤは不運なことに坂の途中で外れてしまったのだ。前輪はもう平地に着いた、あとひと息で坂を登りきれる、が、体がたわむ、宙に放られる、眼下に街が小さく広がってその中へ吸い込まれる…。
「そういえば、その絵本を誰かと眺めた気がする」
私はあやうくソファから落ちかけた。
「最後にパンケーキが画面に大写しになるんだ。そのページの匂いを嗅いでいた。誰かと一緒に。そしたら現実にパンケーキの匂いがしたんだ。香ばしくてバターの湯気があがった最高にいい匂いだった。あれはその誰かがこっそりパンケーキを擦りつけておいたのだったかな」
彼は、御守りを小鳥のように手のひらにのせて、揺らしていた。
脳がパンケーキの匂いを補完したんじゃないかな。
声に出したつもりだったけれど、実際にはあくびで返しただけかもしれない。
「これは別のことなんだけれど、薬で眠る時にはあくびが出ないんだ」
私は彼を一瞥した。彼の声ははっきりしていたが、目は閉じる寸前だった。
「薬で眠る時にはあくびが出ない」
おまじないのような響きだ。私の復唱を聞き届けて、彼は瞼を下ろした。そして寝息をたて始めた。

外はみぞれが降っていた。
その日彼は電話をよこす前から戸口に立っていた。勝手を知ったアパートの他の住人が知らせに来てくれたのだ。私が玄関ポーチに出ると、それよりずっと離れたチョウセンアサガオの木の下で、まだ咲いている白い花を見上げていた。
彼のグレンチェックの鹿撃ち帽は水を滴らせていた。
「私、それ嫌いなんだ」私は後ろから声をかけ、不気味だよね、と続けて言いかけて彼と目を合わせて戸惑ってしまった。

なんでも、電話したつもりになっていたらしい。
何時間立っていたのか?いかにも仕立てが”良かった”であろうウールの帽子はずぶずぶでもう使い物にならなそうだった。彼は帽子にはお構いなしで、コートも脱がずに薪ストーブの前にへたりこんでいた。帽子どころかこれから第三次世界大戦が始まると日本放送局ががなりたてても、眉一本動かさず薪ストーブにあたり続けていそうだった。
蒼白い顔は寒さのせいではなかった。
ドブネズミを一匹手に入れて、私は途方に暮れた。
温かいご飯でも食べさすのが上等のおせっかいかしら。
実のところドブネズミよりもチョウセンアサガオが気がかりだった。
台所に立って、チョウセンアサガオについて思う存分思いをめぐらした。それにキョウチクトウ。花で樹木で毒、鬼が化けている。少年が罠にかかるのを待つ。ドクウツギ。シャクナゲ。レンゲツツジ。鬼の姿は老婆だ。だからこそ私はキョウチクトウが気になる。年老いた女性。老婆は誤解されている。100年に一度の小さな来客に、100年待ってかちかちになったアイスクリームをご馳走する。老人ホームの個室で。そういえばおばあちゃんは一様にアイスクリームが好きだ。システムは老婆のちっぽけな意思などお構いなしにからめとる、役割を演じさせる。老婆はかつて綺麗な娘さんだった。私もそれなりに若い娘さんだ。チョウセンアサガオを食べる。振り乱した白髪。筋張った腕。少年を食べる。むしゃむしゃ。

背後に彼が立っていた。
頭の先から爪先まであいも変わらず彼は彼だった。
その中間地点に御守りがあった。ふと思いついた。
「中学生のときね、放課後に仲間うちで、御守りの中身を開けてみようとなったことがあったのね。高校受験間際で、女の子は鞄にわんさかぶら下げてたから、男の子がからかったんだ。罰当たりな行為にどきどきしながらみんな自分のレパートリーをひとつひとつ広げていった」
彼は黙っていた。耳障りではないようだった。
「どれもただの厚紙で、たまにちんけな祝詞が印刷してあったよ。でも私は自分の御守りの中身を広げる気になれなかった」

ツナとコーンの缶詰とキャベツでコールスローサラダを作った。他にも缶詰はいくつかストックがあった。私はオイルサーディンを開けてバターとニンニクで炒め、瓶入りのオリーブをみじん切りにしたのとまとめてクラッカーにのせた。それからほうれん草のオムレツを焼いた。夕飯に作ったオニオンスープを温め直し、ココットに注いでフランスパンとチーズを乗せた。残りのフランスパンは適当に切ってオリーブオイルに塩を合わせて添えた。ネーブルオレンジも切った。それから自分のためにもカモミールティーを淹れた。それらを全てリビングのテーブルに広げて、彼を座らせた。
「それから御守りはどうしたかってね、校庭のプールに向かって投げちゃったよ。そこにあった全員の御守りも全部、やけくそみたいに」私は大げさに投げるそぶりをした。
彼は食事に手を付けずに眺めていた。
「なんでかわからないけど。中にはそこに居た女の子が男の子にあげた手作りの御守りもあったのね。そもそもみんなそれをからかってたんだよね。女の子は泣いちゃった。それで私はちょっと孤立した。高校で別れたから大したことじゃなかったけど」
私は彼がテーブルを眺めるのを眺めた。石像にお供え物をしている気分になった。
待てど暮らせど動かないのではないかしら。もしかしたら、誰も見てないうちにこっそり動くのかな?それなら私は暫く、あっちの部屋においとまするとして。
「ばあちゃんは親父達が死んでしばらくしてから入信したんだ」
すこしばかり拍子抜けして、私は浮かせかけていた腰をおろした。
「おばあちゃんの知恵袋なんて言うだろ、うちのばあちゃんの言うことときたら、宗教の受け売りばかりでうんざりするんだ。自分の半分も生きてないような30いくつの教祖さまの話をありがたがって聞いてるんだぜ。自分で生活の中で体得したものなんてひとつもないんだ」
彼はスープから口をつけた。
私はお茶をすすった。
「胸で十字切って、アーメンとか言うほうがいいよね、どうせなら」私は言った。
「僕も十字架を持ってるほうがしっくりくる」
彼はオムレツをかき込んだ。
一体なにをやっているのだろう、と我々は思った。おそらく。

これはもはや慣習的に、二人で薪ストーブの前で辛抱強く眠気を待っていた。
その間彼の携帯が38回鳴った。
予想はついたが、ついに彼の恋人の一人がアパートにやってきた。私たちが呑気に炎を見つめている間、玄関ポーチで既にちょっとした騒ぎになっていた。
彼と連れ立って出てきた私を見て彼女は取り乱したようだったが、そうでもないようでもあった。そもそも私を目につける前から取り乱していた。彼女はわめきちらし、泣き叫び、彼を殴り、アパート中の注目を独占した。
彼は弱々しいながらも彼女をどこかへ、ともかくアパートの敷地外へ連れ出して行った。
クリスマス前のできごと。
翌日電話口で彼に謝られた。私は大したことではないから気にしなくていいと言ったが、アパートのオーナーに気をつかうはめになったのは事実だった。叱られるならまだ救われたが、オーナーは以前にもまして私の私生活を心配し世話を焼いてくれ、時に人生を語ってくれた。

それから彼は来なくなった。
私はクリスマスを底抜けに明るい恋人と過ごし、年始を実家の家族と過ごした。

「ふっと視界がクリアになったんだよ、顔を上げたら丘の上に立っていたみたいに」
3月の初め、私たちは有楽町の喫茶店で顔を付き合わせていた。
店内はムッとするような熱気だった。私たちの席は路地に面していて、窓からかすかに流れ込む冷気が鼻と喉を潤した。
「静かな夜だなと思っているときに、冷蔵庫のコンプレッサの振動音が止まって、そこで初めてノイズがあったことに気がつくだろ。僕はついこの間まで何重奏ものノイズに晒され続けていたんだ。それが何かの拍子に一斉に鳴り止んでしまった。底が抜けたような静寂だよ」彼の顔には数えて7ヶ所痣ができていた。
「頭の中で発生している、ノイズ」
「そう、全くもってあれは比喩以上にノイズなんだ。今は本を読んでもすんなり頭に入ってくるし、街の雑踏は70デシベルで間違いないんだ。この冬は外へ出る度に100デシベルのノイズが鳴っていて吐きそうだった。現に何度か吐いた」
彼は殴られてなお端整な顔立ちだった。もう少しへこまされたくらいが具合がいいかもしれない。
「なら、今はやる気に満ち溢れているんだ」
「いや、そういうのとはまた次元が違っていると思う。寝る前の安らぎに近い」
ブレンドコーヒーは上等だったがそれ以上飲む気になれなかった。彼のアイスコーヒーの氷が崩れて小さく音を立てた。確かに彼は冴えを取り戻したみたいだ。
「そしてあくびは出ない?」
彼は不意をつかれたように眉を持ち上げた。
「いつもあくびをしている人がうらやましかったよ」
店内は老人が二人と昼寝をしているパンクな男女が一組、というラインナップだった。
「私も夜までひどい緊張が残っていて、寝る前に洪水をひとつ納めることがあるよ」
「それっておおぬさを振ったりするの?それは大仕事だね、眠れそうだ」
「そういえば今日、”薪ストーブおさめ”の日で、明日片付けを手伝うんだ」
聞くやいなや彼は立ち上がり、ブルーのフード付のナイロンコートとグレーのフェルト帽を手に取った。
私が呆気にとられていると、それらを身につけながら口を半開きにしてみせた。半開きになっているのは私の口だった。
窓の外は何もかもぐしゃぐしゃだった。今日という日は誰もが驚くほど冬に逆戻りしていた。
「でもね、きれいさっぱりノイズが取り除かれた感覚を知ってしまったから、ほんの微かな耳鳴りにも敏感になる」
肩を耳まで持ち上げてポケットに手を突っ込んだ姿勢で、並んで駅まで競歩で進む。

忘れているだけという気がするんだ。もし僕が孤独な老いぼれになるまで生きられるなら、その頃にまた舞い戻ってくるんだ。

彼はそんなようなことを言った。ハイネックのコートに口元をうずめて、つぶやくように言っていた。
私は今現在もどこかにうつろな彼がいるところを想像した。そしてそれは本物のように思われた。
彼だけじゃない、いつかの誰もが、こことは時空間の異なったところで、いつまでも悲哀にくれている。そして時折我々のところに回帰してくる。
「現代人は忙しいからね。子供は忘れない。青年は覚えていたがる。大人は忘れたがる。老人は思い出す。それが社会にとって好都合なんだ」
私は何の慰めにもならない上に、自分でもさっぱり興味を持てないことを言った。

リビングは片付いていて誰もいなかった。彼は手袋を剥いで着火にとりかかった。
私は脱ぎ捨てられたコートやらマフラーやらをハンガーに干した。
彼は炎の様子を見て薪を差し込みながら、ポケットから御守りを取り出し火にくべた。
それから天板に載ったケトルを手にとり、レモンスライスとシナモンをあらかじめ入れたウイスキーのグラスにお湯を少し注いだ。
ロッキングチェアに腰掛けて、それをちびちび飲んだ。

(このお話はフィクションです)