にんにくラーメンチャーシュー抜き

過激な動物愛護のひとが、家畜をかわいそうと言うとき、その人を「人間的」と捉えるか、「動物的」と捉えるか、そんな二項対立が私の感心を惹いている。

動物愛護団体が「動物はあなたのごはんじゃない」という画像を作ってそのコラが出回った。先の問いに多くの人は「動物的」と答えるのだろう。過激な動物愛護のひとは怖い。感情的すぎるからだ。理性が抑制できていないと思わせるからだ。

一方で、この時代は総じて感情の時代だと思う。感情的にある国を嫌うし、扇情的なネタがバズる。
それは動物化なのだろうか。かつて理性が人間の証明だという時代があった。衝動を抑えることが人間的であり、他の動物と区別される崇高なものだと。理性で人々は助け合うと。しかしそんな時代は過ぎたと思う。

動物愛護の人は怖いけれど、私も哺乳類の肉を食べなくなって6年ほど経つ。魚は食べるのでベジタリアンではないし、思想もない。
思想はないが、行動は内面を生むもので、曖昧模糊とした考えが生まれている。動物的な時代の人間的なコミュニケーションについて。

人によって、共食いも平気とか、ウサギはかわいいから食べないけど馬は食べるとか、野菜さえかわいそうと思うとか、感情移入の度合いはそれぞれあるだろう。それはそのまま生き方である。あの人が嫌い、その線引きを広げてすべての人生を尊重できたら確かに人生は豊かになる。
しかし感情移入の線引きをどこまでも広げることはできない。野菜さえ食べられなくなったら死んでしまう。遠くの障がい者を気遣うことはできないし、全ての発展途上の子ども達に募金することはできない。

派生して考える。もし隣にいる人と同じ考えを持てないとする。理性の時代だったなら、嫌悪する感情を抑圧してまずは相手の話を訊き、自己批判もし、考えを切磋琢磨しあうのが人間的な繋がり方だっただろう。
しかし、これほど多様化した社会では、全ての人に対してそういった手順を踏むことはできない。どうするか。「あいつはネトウヨ」とレッテルを貼る。負のレッテルを貼ることはそれほど悲劇的なことではないのではないか。あいつはネトウヨだから私と考えが違うのは仕方ない。あいつは障がい者だから健常者と同じことは強要できない。これは野菜だから食べていい。弁証法的な運動はどこかで成長をやめる。そのとき、感情を解放することで保たれる多様性と人間的なコミュニケーション。

話は戻って、かつて飢餓に苦しめられた時代があり、食べられるものの種類を増やしていった。理性崇拝の時代があって、畜産業は発展した。「産業化された生命」を見て残酷だと思う感情を「感謝して食べればよい」と抑圧した。
かわいそうと声高に叫ぶのが動物的か人間的か。叫ぶ人を嫌悪するのは動物的か人間的か。食べ物を選ぶことからそんなことを考える。

Comment

  1. 同じようなことを考えていて、久しぶりに、ブログにコメントというものを書きたくなってしまいました。長文になってしまってすみません。

    動物的か人間的かはわかりませんが、そもそも、人間は合理的に行動するようにはできていない、いい加減な存在で、そんな人間によって社会ができていると思います。

    そして、一人の人がコミットできるリソースは限られています。

    さらに、人を変えることは基本的にできなくて、その人自身が変わるしかなくて、変わってもらいたいと思ったとき、ものすごいリソースを必要とします。

    ちょっと理性的でない過激な事を主張する人たちを変えることは相当なリソースを必要とすると思います。

    なので、不完全な人間として、過激な信念を持って行動していることそのものは理解しえると信じています。一方で主張に合理性はないと判断するかもしれませんが。その後は、基本的には放っておくしかない、というのが私の考えです。

    自分の領域に踏み込んできたときには、争わなければならないかもしれませんが。

    レッテルを張ることとの違いは、同じ人間である以上、共通感覚を持っているという普遍性を信じることだと思っています。

    人間だから、そのように思ってしまうわけで、自分にも同じ要素がある、ということを常に前提として共感する。

    それは寛容であるとともに、所詮、私が何を思おうとその人たちを変えることなどできない。もっというと私に関係ない、というある種の冷たさもセットなのですが、こういう感覚であれば、もう少し穏やかに暮らせるのでは、と思っています。

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