こんなにガジェット感の無さすぎるMISFIT RAYだけどIFTTTのトリガーになります

スマホアプリと連携して使う活動量計のMISFITシリーズにRAYというモデルが加わり、5月27日より発売されます。予約販売中です。
http://jp.misfit.com/products/ray/

サンプルをいただき二日ほど前から腕に装着しています。
ローズゴールドにグレーのレザーバンドを選びました(写真左手)。かわいい!まだまだアクセサリー類が出るそうなので楽しみ!

こういう活動量計自体初めて使ったんですが、MISFITは腕以外にもネックレスのように首から下げたり、ポケットに入れても使用できて、こんなに人間の動きを感知できるのか…とすんごい驚きました。睡眠ログも、深い睡眠と浅い睡眠が測定されます。それでいて500円玉とほぼ同じ重さで防水、電池だけで半年持ちます。

MISFIT RAYは電話やメールが来たらLEDを点灯して通知してくれたり、朝起きる時間にアラームをセットしておけば振動して通知してくれて快適な目覚めを得ることができます。
また、MISFIT LINKアプリを入れれば、MISFIT本体のタップによってスマホを鳴らすこともでき、IFTTTのレシピを割り当てればもっといろんな操作ができます。
私は最近自宅の照明をPhilipsのIoT照明「hue」にしたので、ためしにMISFIT RAYをタップして照明オン/オフしました。

(タップ系のトリガーがmisfit RAYの場合、ダブルタップは進捗状況の確認に設定されていて、残されたトリプルタップしかレシピに使えないことに気づくのに時間がかかりましたが…。)

(このレシピは実用的じゃないけど、hueのほうもまだ全然遊んでいないので、何かしたいです。)

性別から自由になりたい童貞女子による女性の性欲についての思弁

前回のブログは5年以上前から思っていたことをそのまま書いた。時代状況を全然吸収していないが、人に伝わるのかなあと思って書いてみた。

私は性別から自由になりたいと思っている方の人間だ。
「生まれ変わったら男と女どちらになりたいか」?、「男に生まれても女に生まれても私らしく生きられる世界に生まれたい」。

女友達も少なく世間的にもあまちゃんな私の話など童貞が女を語っているのを聞くくらいの感じで読んでほしいのだけど、男性の性欲は抑圧されることでこじれるのに対し、女性の性欲は根本からこじれる構造にあると思う。

「私は風俗嬢が天職だと思う!」っていう女性がいると、男性は単純に「性欲が強いんだね。じゃあ仕事で発散できていいね」って言う。でも若い女性の性欲の強さは、生物的なものよりも、いかにこじらせているかっていうのと比例すると思う。

「小さいころの性的トラウマがあったけれど、アダルト業界に入ってトラウマを解消できた」、なんて女性や、「夫とセックスレスで女としての自分に自信がなかったけど、AV女優になって人気が出たことで、生きる気力が湧いてきた」なんて人は多いようだ。この場合男性のような「性欲の発散」ではないと私は思う。

女性の性欲は承認欲求とセットになりやすい。だからこじれやすい。

女性は子どものころから同性のおっぱいを吸って心地よさを感じているから、女体のエロスに目覚めている。スタイルのいい自分に萌える。モテる自分に萌える。自分が萌えられる存在であることに萌える。そんな風に抽象的なレイヤーの性欲だらけで、男性のように性欲を性欲単体として切り離しづらい。
承認欲求やトラウマが性欲の源泉になっていれば、性欲に向き合うほどますます性欲に絡め取られ、自覚したら飛躍して性産業に行ってしまったりもする。

承認欲求を満たしたいというのは男も女も変わらないのに、女の場合きれいになってモテることが選択肢のほとんどだったり、アイドルやAV女優になって作品づくりをするということがみんなの憧れる大きな選択肢になっているのが、私は狭小だと思うし気持ちの悪さを感じる。

女が女であることに縛られるほど性的サービスで承認欲求を満たすことが手軽で安直な手段になり、女の選択肢を減らしているという構図。選択したのは本人の意思のようでいて実際は性別というシステムに依拠している。そしてそれは男性の性欲よりも女性の性欲の方が資本になることが後押ししている。

だから私は性別から自由になれる世界を望んでいる。のかもしれない。

童貞女子の思弁は以上です。
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全ての女性はフェミニストであるべきだ

私は有識者ではないし色々な責任を引き受ける準備もないし、社会には他に解決すべき問題が山積みだ。それでも私はフェミニズム論者でありたい。「全ての女性はフェミニストであるべき」だと考えている。なぜ全ての女性がフェミニストにならなければいけないのか? 今の私たちの社会には「女性」と「人間」しかいないからである。社会が「猿」と「チンパンジー」で構成されているとして、チンパンジーが疎外されている。チンパンジーからの主張は「私たちも猿だ」だろうか? 違う。「お前たちはゴリラだ」。この主張ができるのはチンパンジー側のみだ。だから全ての女性はフェミニストであるべきなのだ。

「女性」と「人間」しか存在しないことに実感が湧かなければイメージしてほしい。「男になる」とは「社会的人間になる」と同義だ。その通過儀礼は男性のみが獲得できるもので、女が性転換をして「男になった」ところで、「大人になった」わけではない。
対して「女になる」は性別や身体、そして身体の拡張としての「身に纏うもの」を変容するだけで獲得できる意味が全てだ。
女に見える動物はあまりいない。ゴリラもイグアナもイワシも。だがピンクのリボンを頭に結んでやれば女に見える。女とは身体的記号が全てで、男性にはその身体がない。男性は神と同じく性別のない無色透明で中立な存在で、性別を持っているのは女性だけだ(この文章ももしも「あたし、〜と思うのよね。〜なのかしら。」と書いていたら、もっともっと公共性のない随筆と受け止められるだろう)。そういう意味で「女性と人間しかいない」。

男性の中にもフェミニストはおり、彼らは「女性を救ってやる」というまさに男性中心主義に陥る危険と戦っている。そんななか女性が率直に権利を主張せずどうする?
なぜフェミニストが責任を負わなければならない? 世界の半分は女性なのに?

争いごとを嫌ってフェミニズムを退けることはある。場面単位で発生する。「個人の我慢くらいで済むのなら」、と。
なぜ個人的、家庭的なことは政治的、公共的なことと切り離されて考えられるのか?
権利をめぐって争うのは持たざるものの証明であって、育ちが良いと古き良き女性像に同化することに疑問をもたなかったりする。
男性の一歩後ろを歩くような女性は美しく、美しさゆえに内面化されやすい。女性は「おしとやかにしなさい」「股を閉じて座りなさい」などと母親を通じて、男性を意識するよりはるか昔から「身体」を矯正される。そして進んで矯正されていく。奴隷が奴隷であることにアイデンティティを持ち、自分の子どもを奴隷に育ててしまうように。

そういった奴隷はフェミニストにとって障害か? そうではない。
女性の労働をめぐって人と話したりすると、男性と対等になりたいのなら身体性を犠牲にしろ、長時間労働に耐え、身なりは最低限整えるだけにしろ、という至極真っ当で現実的な話になってしまう。
この話は裏返すと男性と対等になる気がなければ女性を売りにして良いという意味になる(風俗産業の是非の話にもなりやすい)。
すると、女性らしさの奴隷になることを批判する(女性らしくあることを否定する)ことと、女性を売りにする(女性らしくあることを肯定する)こと、これは正反対のようでどちらも同じ構図だということがわかる。
男性社会の中で生きるために女性らしくあるか女性を捨てるかの二択なのだ。「人間」か「女性」かの二択のまま変わらない。
それは女性解放のひとつの側面だが、フェミニズムの秘める可能性はもっとあると思っている。

できることは多様な性の在り方を肯定し推し進めることなのかなと思う。LGBTや既成の型に囚われない家族の形など。
ゴリラ以外にもオラウータンやチンパンジーを発見しようということ。自ずとゴリラも認知されるようになり、男性の生きづらさを解消することにも繋がると思う。

自身のことも再発見していかねばならない。政治施策がうまくいったり失敗したりするのを観賞するだけで終わらせてはいけないと思う。

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この間の朝のガラちゃん(イグアナ)。
このサイトはやく作り直したいです。

文字要素ひとつにCSSでボーダーをいっぱいつける遊び

css3を使ってweb1.0感のあるデコレーションをするほうほうをはっけんしたよ!\くだらねー/

1447494279Z58i4vnZzoe5bui1447494278

(gifパージョン)

スクリーンショット 2015-11-14 18.37.51

background: linear-gradientを透過せずに50%でかける

スクリーンショット 2015-11-14 18.38.05

background-positionの上下方向をずらすとサンドイッチになるんだよ!

スクリーンショット 2015-11-14 18.36.16

border-topとbottomとbox-shadowとtext-decoration: line-throughもつけてフォントカラーかえてみたのがこちらです

最終的にspan要素に
background: linear-gradient(rgba(248, 18, 18, 0) 50%, #FF0000 0%);
border-bottom: 12px solid #BC02F9;
background-position: 0px 50px;
border-top: 13px solid #FB01C5;
box-shadow: 0px 65px 0px #00b9eb;
color: #0BF16B;
text-decoration: line-through;
をつけました

【追記】

background: linear-gradientを透過なし50%に加えてbackground-sizeも変えるとこうなるのであった

この岸あの岸

「自分が死ぬまでに達成できないもの」について思いをめぐらせるようになった。歳をとってタイムリミットに現実感がもたらされたのだろうか。それとも人生をかけてコミットしたいものがようやくできたのかもしれない。
「人生を物語化」する物事に懐疑をもって接してきたつもりでいる。政治とか宗教とか科学とか哲学とか占いとかあなたとわたしが同じ時代に生まれたのは運命だとか。人間は物語のなかでしか生きられないことは重々承知しつつなるべく相対的立場を好んだ。その性質は私のジェネレーションで語ることもできるが、新興宗教に没入したまま亡くなった母親のもとで育ったという個人的体験で語ることもできる。
ジェネレーションで語るならば、物語に没入する危険性を鑑みつつも「あえて」コミットするというメタ没入型のひとも多い昨今だ。タイムリミットに気づいていてクレバーだと思う。
タイムリミットを延ばせるとしたら草薙素子のように疑体化したりAiに脳データを移植するほかない。2045年と憶測されているシンギュラリティ以後にはそれも可能かもしれない。
シンギュラリティが起これば人間は単純労働から逃れ古代ギリシア人のように哲学に浸る時間が増えるという論が一方ではある。脳データの継承ができ死を乗り越えられるようになったら実存的哲学はどういう形になるのだろう?宗教は?
「自分が死ぬまでに達成できない」ことの根源はタイムリミットともうひとつ、達成したいことが他者によって阻まれているということだろう。オブジェクトのリミットがあるためであることが多いように思う。ひとつの神の予言の地を奪い合うこと。財産を奪い合うこと。動物の命を奪わなければ生きられないこと。
オブジェクトのリミットが超えていきやすくなっている。ストリーミングでの音楽配信がいま広まりつつあるように、モノを持つことが少なくなっているから。
タイムリミットを延ばせないなら、並行世界に移行して夢を実現するという方法もある。
この間「破壊衝動と性衝動を切り離すことに失敗した屍姦好きの犯罪者に生まれていた可能性を考えることがあるよ」と人に話した。死刑についての話になり、世間と利害関係が一致しなかった不幸な犯罪者は死刑ではなく仮想現実に送って自分の好きなように生きさせれば良いという結論に至った。死はまだ未知だから。
魂は有限か?宗教家の母親のもとですごく考えたことがあった。
魂という概念は私のなかであるときは固有に存在するものだったりあるときは理不尽な肉体と合理性の間の余剰物だったりあるときは思考回路のクセだったり、そのときの自分を支配している低レイヤーの物語のなかで形をかえたが、常にある概念だった。
ほとんどの宗教は意味づけの体系と呼べるから、宗教を排除して意味付けを無くされた私は意味について様々な角度から引いて見たり近づいて見たり、結局のところますます意味に親しむようになってしまった。無意味に死ぬ命があるのはなぜ?というように。
何も達成できなかったとしても小さな意味を見つけ物語に収まっていくのだろうという諦観がある。テクノロジーの発展は意味の彼岸に連れて行ってくれるだろうか。そればかり楽しみにしている。

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カメラ関係の近況をお知らせ

どれも公開されてから結構日にちが経っているのだけれども、カメラ関係でしたことをまとめてお知らせ。

ムック本のカメラマンをしました


アニメ「てさぐれ!部活もの」の公式ファンブック『てさぐれ!本もの』でカメラマンをさせて頂きました。


(公式写真)
メインキャストの西明日香さん、明坂聡美さん、荻野可鈴さん、大橋彩香さんを撮影させて頂きました。

「アイスっ娘」でカメラマンをしました


アイスを食べる女の子たちの写真限定のギャラリーサイト「アイスっ娘」でカメラマンをしました。

http://icecco.com/

もう遠いこの日(撮影日は服装でお察し下さい)カメラの装備でとある失敗をしており、暖かい目で見てやって下さい。

テクニック記事を書きました

株式会社LIGのブログで「ポートレート・人物写真をワンランク綺麗に撮るコツ・テク12選」という記事を書きました。

http://liginc.co.jp/web/camera/69418

モデル協力は横澤みさえ(MISAE)ちゃんです。
代々木公園〜表参道あたりを付き合ってもらって撮影しましたが、天候がコロコロ変わって大変でした。

にんにくラーメンチャーシュー抜き

過激な動物愛護のひとが、家畜をかわいそうと言うとき、その人を「人間的」と捉えるか、「動物的」と捉えるか、そんな二項対立が私の感心を惹いている。

動物愛護団体が「動物はあなたのごはんじゃない」という画像を作ってそのコラが出回った。先の問いに多くの人は「動物的」と答えるのだろう。過激な動物愛護のひとは怖い。感情的すぎるからだ。理性が抑制できていないと思わせるからだ。

一方で、この時代は総じて感情の時代だと思う。感情的にある国を嫌うし、扇情的なネタがバズる。
それは動物化なのだろうか。かつて理性が人間の証明だという時代があった。衝動を抑えることが人間的であり、他の動物と区別される崇高なものだと。理性で人々は助け合うと。しかしそんな時代は過ぎたと思う。

動物愛護の人は怖いけれど、私も哺乳類の肉を食べなくなって6年ほど経つ。魚は食べるのでベジタリアンではないし、思想もない。
思想はないが、行動は内面を生むもので、曖昧模糊とした考えが生まれている。動物的な時代の人間的なコミュニケーションについて。

人によって、共食いも平気とか、ウサギはかわいいから食べないけど馬は食べるとか、野菜さえかわいそうと思うとか、感情移入の度合いはそれぞれあるだろう。それはそのまま生き方である。あの人が嫌い、その線引きを広げてすべての人生を尊重できたら確かに人生は豊かになる。
しかし感情移入の線引きをどこまでも広げることはできない。野菜さえ食べられなくなったら死んでしまう。遠くの障がい者を気遣うことはできないし、全ての発展途上の子ども達に募金することはできない。

派生して考える。もし隣にいる人と同じ考えを持てないとする。理性の時代だったなら、嫌悪する感情を抑圧してまずは相手の話を訊き、自己批判もし、考えを切磋琢磨しあうのが人間的な繋がり方だっただろう。
しかし、これほど多様化した社会では、全ての人に対してそういった手順を踏むことはできない。どうするか。「あいつはネトウヨ」とレッテルを貼る。負のレッテルを貼ることはそれほど悲劇的なことではないのではないか。あいつはネトウヨだから私と考えが違うのは仕方ない。あいつは障がい者だから健常者と同じことは強要できない。これは野菜だから食べていい。弁証法的な運動はどこかで成長をやめる。そのとき、感情を解放することで保たれる多様性と人間的なコミュニケーション。

話は戻って、かつて飢餓に苦しめられた時代があり、食べられるものの種類を増やしていった。理性崇拝の時代があって、畜産業は発展した。「産業化された生命」を見て残酷だと思う感情を「感謝して食べればよい」と抑圧した。
かわいそうと声高に叫ぶのが動物的か人間的か。叫ぶ人を嫌悪するのは動物的か人間的か。食べ物を選ぶことからそんなことを考える。